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AIがどんどん進化して、あらゆるものがあっという間に生成できるようになりました。効率や合理性を考えれば、それはとても便利なこと。でも、ことAIによるデザインや写真などにどこか居心地の悪さを感じるのはなぜか。それは不完全さの存在を無意識にサーチしてるからなのか、私が不完全な「人」としてのaiであるからか。
ホームページも今となっては、AIで完結できることもあるようです。けれど、人と人がぶつかり合ったり、笑い合ったりしながら形になっていく過程ごと映し込めるのは人間だけ。もし「このホームページは、私たちが作りました」と素直に書いてあったら、それは野菜に“生産者の名前”がついているような安心感になったりしませんかね。
撮影の裏側で「代表の方や担当者さんとあれやこれや議論して耕して、ようやく辿り着いた表現がこれです」といったエピソードを聞くと、サイトが急に血の通ったものに見えてくる。単なる情報の羅列ではなく、「誰が、どんなストーリーを秘めて、こだわりを持ち」つくったのかが透けて見える。その物語があるだけで、見る人の受け止め方は大きく変わったり。
完璧に整ったものよりも、ちょっとした歪みやクセの方が引っかかりがある。だからこれからは、野菜のような手作りの温度が見える“オーガニックなホームページ”が持て囃されることもあったりするのかもしれない。
写真も同じですよね。腕のあるカメラマンが被写体の内面まで写し込むからこそ作品になるように、私たちも企業や人の“人格”をどう切り取るかを問われています。合理的で効率的なだけでは伝わらない何かを、そこに宿せるかどうか。
「このホームページ、私たちが作りました」。そんなジョークを超えた、コピーライターとしての私、aiの人間味や愛嬌を感じてもらえるなら、それがAI時代における新しい魅力になるなんて、妄想してます。
AI TAKASHIMA