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AIの進化によって、人が“働く”ことの意味が少しずつ変わってきている。
かつて、未来学者たちは「100年後、人間は1日3時間しか働かなくなる」と予測した。
その言葉が、いまになって現実味を帯びてきた気がする。
AIが多くの労働を担うようになったとき、
残された時間を私たちはどう使うのだろう。
著述家の山口周さんは、その問いに対して「遊び切ること」を提案している。
働くことではなく、遊ぶことに人間らしさを見出すという視点だ。
そのヒントを求めて、山口さんは“遊びの天才”と呼ばれる所ジョージさんを訪ねたという。
所さんのガレージには、モノづくりや日常の工夫があふれている。
誰かに頼まれたわけでも、見返りを求めているわけでもない。
ただ「やってみたいからやる」。
その姿に、これからの“仕事”のかたちが垣間見えるような気がした。
哲学の世界では、こうした状態を「暇の使い方」として語られてきた。
人類はこれまで、空腹を満たし、身を守るために時間を使ってきた。
そして有史以来、自由な時間を獲得したのが貴族であり、
その代償として民衆の為に努力すべきという社会責任(ノブリス・オブリージュ)が発生していた。
けれど今、AIによって多く民衆が自由な時間を獲得しつつある。
それは同時に、“暇をどう生きるか”という新しい課題とも考えられる。
悲観的に見ると、目的を失って立ち止まる人が増えるかもしれない。
でも、そこには希望もある。
働くことに縛られず、純粋な興味や好奇心から動くことができる。
そんな自由を、私たちはまだ使いこなせていないだけなのかもしれない。
人は、決められた枠の中ではうまく働ける。
けれど、「自由にしていい」と言われると、急に迷ってしまう。
その不器用さこそが、人間らしさの証なのだと思う。
AIが効率を極めていくほどに、
私たちはもっと不確かで、曖昧な“遊び”の中に価値を見出していくのかもしれない。
“働く”と“遊ぶ”のあいだ。
その境界を行き来しながら、
自分なりのリズムで生きること。
それが、これからの時代の「しごと」になる気がしている。
