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人は、定期的に飽きる。
「このままじゃだめだ」と思う。この感覚と常に共存できるかどうか。
「住する所なきを、まず花と知るべし」—業績が安定している時こそ、「本当にこれでいいのか?」と疑い続ける人とそうでない人がいる。
変わるのはしんどいし、勇気もいる。それでも呼吸するように変化し続ける人間がいる。1年前の自分と比べて、全く同じことをしているほうが恐ろしい。上手くやってるように見えても、実は見えないところで山ほど失敗し、高速で変化している。
飽きるのは悪いことではないと考える。むしろ成長のサインでもある。
飽きている自分を否定せずむしろ受け入れる。飽きているときこそ、沸々と内なるエネルギーが溜まっている状態で、噴出先を探している。だからそのシグナルを正しく受け止める必要がある。受け止め方で、その先が変わる。
その飽きに、どんな“栄養”を与えるか、「食欲の飽き」だ。
一つは無意識を鍛える。新しいものは無意識の中の判断から生まれる。完全なゼロイチはほとんど存在しない、すべては既存の情報の組み合わせだ。直感で結びつく瞬間をどう立ち合わせるか、立ち会えるよういつも以上に文化的インプットをむしゃむしゃ食べ続ける。
それも、すぐに役立つわけじゃない。でも無意識の筋肉を鍛えてくれる。顕在意識で判断できる領域はほんのわずか、ほとんどは無意識に左右される。
その器を豊かにするのがそれであり、さらに自分の物とするために有効なのが人との対話や書き記すことだ。自分の無意識で育て続けてきたものを、言語化してアウトプットすること、そしてようやく有機的無意識として根付かせることができる。
一瞬の判断で、築き上げたものは崩れさる脆さがある。
無意識の自分をアップデートし、守るべきものは守り、自分なりの戦い方で進む。
「秘すれば花」—奥ゆかしくも、人目に触れない場所で必死に地道な努力をし変化し続ける。これこそが、生きる上での絶対的な奥義だ。
デザインとは、“そもそも”を問い続け、その本質を掘り起こし続けることでもある。それはどこまでも私たちに付き纏う、生みの苦しみでもある。苦しみ、もがきながら、最後の判断力を磨き続ける。そうでなければ、かき集めたファクトやデータも、ただの情報の羅列でしかない。
豊かな飽きを経験し、厳しい冬を耐え抜いたその先に訪れる、春の景色が楽しみだ。
KEIRO NISHI
