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永田町のオフィスへ向かう道すがら、あるホテルの前でふと、心地よい違和感を覚えた。
一台のタクシーが、ホテルとカフェの境界あたりに停車した。その瞬間、ホテルの駐車場で案内をしていた係員が持ち場を離れ、流れるような動作でエントランスのドア付近へ移動した。まだ乗客がホテルの客かどうかもわからない。しかし彼は、タクシーの停まり方や降車する人の纏う空気感から、その人がホテルのゲストであることを察したのだろう。
案の定、乗客はまっすぐホテルへ向かった。駐車場の係員は乗客が歩みを緩めるより一歩早く、そっと二重の自動ドアをどちらも開いて中へと導いた。
本来、自動ドアは近づけば勝手に開く。しかし、センサーが反応し扉が動き出すまでには、ほんの数秒の「ラグ」が生じる。機械の速度に合わせて歩幅を調整する、あの微かなストレスとも言えない引っかかり。外気を遮断するための二重扉であれば、その不自由さはなおさら感じやすい。ホテルスタッフは機械の特性を考慮し、あえて手動で介入することで、その違和感をホスピタリティへと昇華させていた。
これからの未来、移動はさらにシームレスに自動化されていくだろう。いつかは誘導係自体も必要なくなり、膨大な情報処理を担うAIが、コストをゼロに近づけながら社会を最適化していくことが予測される。
しかし、AIは「何が効率的か」という解は出せても、「なぜそうするのか」という目的を自ら生み出すことはできない。便利なだけでない豊かな社会を生きるためには、提示された正解をただ享受するだけでなく、主体的に「問い」を見つけ続ける必要があると思う。先のシーンがなぜ心に残ったのか。今思い返すと、そこに機械の「解」に対する人間の「問い」を感じたからなのだろう。
では、どうすれば問いを見つけられるのか。そのヒントは「違和感」にある。
先の例も、「機械に待たされる不快さ」を実体験として知っていたからこそ、機械の隙間にあるニーズに気づけたのではないか。たとえその気づきの主(ぬし)が彼本人ではなかったとしても、きっかけが「誰かが気づいた違和感」にあることに変わりはない。そして、その自動機械にわざわざ人が介入している光景自体に私が違和感を持った結果、こうして機械と人間の関係性を考察する機会が生まれた。
仮に将来、AIがホスピタリティを完璧に模倣する日が来たとしても、それでもなお「人間がそこに立つ」ことには絶対的な価値がある。AIが導き出すのは統計的な「平均的な正解」だが、人間が差し出すのは、その人の感性から絞り出された「固有の解」だからだ。
本来、私たちが信じる価値というものは、個々の人間によって定義が揺れ動く不確かな存在であり、だからこそ、効率や数値に還元できない一回性の表現が受け手の心を震わせ、特別な意味を持つ。AIがこの領域をトレースするには、自らも五感を持ち、痛みや心地よさを身体感覚として知る存在になるしかない。今の技術ではたどり着けないその深淵に、私たちが「問い」を立て続ける意義がある。
心が動いた瞬間に「なぜ自分はそう感じたのか」と自問自答する。違和感への感度と熟考の積み重ねが、人間ならでは、もっと言うとその人ならではの「問い」を生む糧となる。「答え」は機械に任せてもいい。だが、次にどのドアを開け、どのような価値を創造すべきかという「問い」だけは、決して手放してはならない。
それは、人間が人間であり続け、私が私であり続けるための希望でもあるからだ。
私は自動ドアの先に立ち続ける未来を見たい。
RYO NAKAGAMI
